ミュノーナ - スフィンクス・ステーキ(未知谷)

linedrawing2018-07-08

同著者の邦訳を新たに2冊手に入れたので、頁切る前にこちらを再読。
ミュノーナは、哲学者ザロモ・フリートレンダーが創作物す時の筆名。
パウル・シェーアバルトと親交結び、タダイスト達の活動の傍にあったので、前触れめくイマジネーションとダダを繋ぐ存在だろうか。
エネルギー保存の法則を発見したローベルト・マイヤーの評伝執筆していることも忘れないでおきたい。
シニカルな掌編集ぐらいの印象でサクサク進めた初読の憶えはどこへやら、これがどうして、注意喚起されるところ多く躓いてばかり。
こちらの読解力に僅かばかり成長したところがあるのか、単なる読み零しを拾い直しているのやら。
収録作のほとんどに、究極への志向から極端な選択をした人物が登場する。
その選択が技術・思想で成立するため、寓話めかしてはいても味わいはSFに近い。
究極なところでの判断とは叶うか/叶わぬかしかないから、もはや白黒二元論の世界、たとえ「愛」を俎上に載せたところで情緒的な部分は排除されてしまう。
ここでの愛の成就は、パートナーの意向や生死に拘らず、永遠に施行されるものなのだ。
悲喜劇と他人目に映ったところで、当人は理想の内、「悲」があるはずもない。
周囲をバリバリと粉砕しながら進む理想の実現には、もう笑うしかない。
一方で「ゲーテ蓄音機 - ある愛の物語」の一篇は様子が違う。
どれほど過去の発声であっても微細ながら振動は空間に残るはずとの理論からゲーテの声を再生する発明は、肉声から故人の思惟を量れるものでもあろうに、ただ発明家の想い人の気を惹く道具に。
手にした究極的能力で見得を切るのみというのもまた極端な話ではあるけれど、どうしてか、こちらの方がチャーミングだ。
可否ではなくて、距離手繰る恋愛だしね。
愛嬌とは白黒ではなく淡いにあると。


註. ローベルト・マイヤーは永久機関の発明に明け暮れた後、不可能と断じて「エネルギー保存の法則」の発見に至る。これもまた極端な話。