展示案内

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距離や時間を計ること求められるこのご時世。

久々の個展に於いて、世界を自ら拵えた単位で刻み組み直してみます。

2021年11月3日(水) – 15日(月)

小川敦生 展【単位】at ギャラリーNEW新九郎

10:00 – 18:00(最終日16時迄) 9日(火)休廊

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ギャラリーNEW新九郎

http://www.0465.net/omise/shinkurou/

tel. 0465-20-5664

神奈川県小田原市中里208ダイナシティエスト4F

https://www.dynacity.jp/access/

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『単位』

人は、自分の時間を刻むものを暦や時計とは別にそれぞれ持っていると思う。

それは、読んだ本の冊数であったり、車の走行距離であったり、履き潰した靴の数であったり、ちびた鉛筆の本数であったり。

僕で言えば描線であることは、他人目にも明らかだろう。

振り返れば今日まで描いてきた軌跡があることは間違いない。

ただしこれは、作品の別関係なく延々と続く営為でもあるので、何かをカウントしてくれることはない。

無理に計ろうともすれば、毛糸のセーターのほつれを引っ張るが如く、僕の今日までの時間が解けかねない不安がある。

いや、本当に無理を承知で数えるなら、過去から現在へ伸びる僕の時間がただ1本切りあるだけ…か。

そもそも僕には、時が加算されていくという感覚がない。

時間とは、記憶に蘇る一瞬一瞬で解体していくものだろう。

眼前の画が、モザイクのタイル、モニターの色点、蝶の鱗粉に分解されていくように。

そう、時に限らず事物の全てを僕らは自身の単位に解体して認識する。

書架に詰め込まれた本は、読み集めたそこに掛けられた時間ばかりではないだろう、ある人物にとっての世界をも示しているはずだ。

「世界はどうあるか」ではない、「世界をどうあらしめるか」。

本展では、定規を使わず手で描いた1本の線/ひとつの輪から成る方形で世界の解体を目論みます。

装画案内

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アメリカから届けられた、夢見るような電脳音楽。fsksの1stフルアルバムに装画添えました。
無料公開されているので、ぜひ耳に目にしてもらえたら。

fsks『Floral Electronics』(Lost Frog Productions [LF111MP3])
https://archive.org/details/lf111mp3

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今度の休日、海と山、行きたいのはどっちの問いに…立体駐車場の空きスペースにカスタードぶちまけながら一緒にシュークリーム食べたい…との答え。
ある種の約束事の不履行はチャーミングだ。
無機質な構造に情緒や感情を読むのはどうだろう。
僕らの暮らしは便利の代替にエレクトリックな罫線が引かれつつあるけれど、
0/1、on/off、yes/noで編まれたグリッドを無視して、やっぱり思い思いの解を上描きしてはいないか。
甘く汚された立体駐車場の幾何学に、僕も冬の海/山の景色を重ね見ている。
さぁ、もっと暖かい場所へ行こう。

演奏案内

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秋山徹次さんにデュオで演奏する機会もらい、久々にバンジョー鳴らします。
90分1曲の、砂漠で砂粒数えるような音楽になるかと。

2020年2月15日(土)
【小川敦生 (バンジョー) + 秋山徹次 (ギター、北山トライアングル)】
at 水道橋Ftarri
open. 19:30 start. 20:00
1500円
http://www.ftarri.com/suidobashi/
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Ftarri
東京都文京区本郷1-4-11 岡野ビル地下一階(金刀比羅神社の向かいのビルです)
tel. 03-6240-0884(16:00〜20:00)
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飛行機雲を見ると、空にまで描線延ばしたくなり、如何ともし難い方策思案に捕らわれる。
3Dペン?いやいや、あれは地面から線を積み上げるでしょ。
彫刻でもなく、「そら」という平面でもなく、望みは宙に描くこと。
空っぽなところに、空っぽな線を。
それこそ雲か霞で描ければ。
せめて音が、目には映らねど紡ぐラインがあながち遠からず。

催し案内

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今、フィジカルで音楽を探るのは、自分の関心の外にも琴線鳴るところがあるのを求めてかもしれない。
その日その場所、ディガーの思惑など無視して雑多なレコードが積まれる。
僕/あなたの繰る手には、情報や知識と関わりなく音楽が触れるんだ。
盲滅法に引き抜いた一枚が、未知の響きと事故のように出交わす機会。
さぁ、自身の外へと出掛けよう。
ライブ・ペインティングと嘯いてダラダラ描きながら、僕も会場で物色しているかと。

2020年2月2日(日)
【小田原レコード祭り】
at 小田原市民会館3F小ホール
open. 10:00 close. 18:00
入場料. 500円(中学生以下無料)
https://www.instagram.com/odawara_record_fes/
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小田原市民会館
http://www.city.odawara.kanagawa.jp/public-i/facilities/siminnkaikan/
問合せ. 小田原市文化政策課 おだわら文化事業実行委員会 : tel. 0465-33-1706

展示案内

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小田原の街中で催されるアート・イベントに展示参加します。
名物も多い土地、あれこれ目当てを掛け持ちして足延ばしてもらえましたら。

2019年11月23日(土)、24日(日)、30日(土)、12月1日(日)
小田原城町アートプロジェクト – 記憶のノゾキミ】
小川敦生、柴田純椰、横井山泰、m.yam clayworks、松岡大
at オービックビル・旧松浦スポーツ店・旧瀬戸米穀店
10:00 – 16:00
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詳細.
http://www.city.odawara.kanagawa.jp/field/lifelong/culture/event/19shiromachiart2.html
tel. 0465-33-1709(小田原市役所 文化部:文化政策課 芸術文化創造係)
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『ghost catcher』 小川敦生
僕らの生活圏には、それぞれの動線が描き易いよう、罫線が用意されている。
それが、要求、需要、整備、合理…に応えて縦横に引き増やす内に、
向こう側が確認出来ない程に目の詰まったグリッドとなってしまった。
もはや何処の上を走っているのかも分からないガイドに、動線/僕は迷っているのではないか。
どうせ迷うなら、案内なしに実際の街を歩いてみよう。
見知らぬ路地で迷子になろう。
自ずと描かれる動線を見えるように刻む。
勝手承知、これが新たな罫線だ。
意識の中で幽霊と消えていた景色すら、ほら、透かしに見えているかもしれないぜ。

フリードリヒ・グラウザー - 狂気の王国(作品社)

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血痕も飛散する荒らされた部屋を残し、行方知れずとなったラントリゲン精神病院長。
入院患者ピーターレンの、タイミング揃えたかの脱走との関連はあるのか。
対象からの直接指名で、院長代理のラードゥナー博士の警護に当たるシュトゥーダー刑事。
精神病院という閉じられた空間の中での捜査が始まる。
…と、ミステリーとしての体裁を用意したからには読者にフェアであらねばとするのか、施設の構造や状況説明、証言がつぶさに積み重ねられていく。
ところが不思議なことに情報が微に入り細を穿つほど、印象の中で舞台となる病院は表現主義映画のセットめいて捻じ曲がった書割と化していく。
それに、頁の多くを割いて語られるのは謎解きではない。
院内で人間性を慮ろうとする医者、患者の共闘する姿だ。
一向に成果の見えてこないことへの憤懣は、背景の1920年代の精神医療から溜まり続け、ついにはSPK(社会主義患者集団)のテロ行為へと至るのだろうか。
いや、そのような暴力で抜けるガスなんてない…現在も現場での苦闘は続いているはずだ。
日常生活を娑婆に置いていながら罪を犯した時のみ手を雪ぎに精神科の扉を叩く…そのような者が絶えない現在にあっては、病院の内外を引っ繰り返してしまうSPKの主張は妙なリアリティを伴って響く。
この小説の中でも謳われる病院の内外についての疑義。
狂気は伝染する…けれど本当のところ伝染ったのはどちらからどちらにだったのか?
ここで目指されている病院の姿とは、自己完結した世界のようだ。
罪も裁きも、傷も癒しも、生も死も、正も狂もすら外部に頼らず賄える世界。
それは内面に籠る患者の姿を思わせなくもない。
必要とされているのは救いではないのかもしれない…固有の世界の維持なのか。
作者は精神病院、監獄での監禁経験を基に物語を紡いでいる。
病んだ世界の内に精神病院という世界があり、病院の内で創作された世界があり、小説内の登場人物が内に抱える世界がある…入れ子状の箱が幾重にも閉じられていく。
箱が別ける内外とは、もはや正気/狂気ではあるまい。
自分自身が入っている可能性もある中身の知れぬ箱を突き付けられて、勝手に「事象」を解体し「謎」を組み立てた探偵役の二の舞を演じやしないかと、うろたえている。

 

TULLI LUM – Tulli Lum(CD Viljandi FolkMusic Festival ‘00)エストニア

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エストニアのフォークロックバンドJUSTAMENT、JAAARメンバーらによるユニット。
普段演っているバンドの方をネットで確認してみる限りでは…アメリカのカントリー歌手が吹かすリーダー風を見て「おらの郷の節でも音頭取ってみんべぇ」と始めたんじゃないかと想起してしまうほどになんとも野暮ったい。
それが唄でこうも変わるものなのか。
エストニアの民謡も採り上げているものの一旦自分たちの土の匂いを忘れて、喧騒を鎮めるジャズ・クロスオーバーな演奏で場所を作る。
ぽっかり空いた渺茫たる響きの中に、野卑でいて可憐な女声が現れる。
反復する旋律を拍子取るように音節で切っていきながら伸びる音に口を閉ざさない謡いが強く耳に残る、叫ぶこともけれんに転がることもないのに。
演奏者が土を忘れる必要があったのは、きっとボーカルに迎えた彼女のルーツが他メンバーと異なるから。
ラトビア出身というばかりではない。
少数民族リヴォニア人であり、ファミリーバンドを端緒に母語としては失われたリヴォニア語で唄っているのだ。
かつて日常に思考され意思疎通していたはずの言葉が、今や応える者を持たないとは話者としてどんな気持ちだろうか。
けれど表現者/創作者があることの幸い…残りの内のひとりではなく、ひとりからでも始められると考えられるだろうから。
ひとりから始まった新造語エスペラントの拡まりを見よ(エスペラント語のトラッドについても、その内に書けたら)。
そもそも「わたし」にとっての「くに」とは、居場所であり居心地のことだろう。
土地を持たずとも、自分以外の民を持たずとも構わない。
ひとりひとりが王国の主なのだ。
それぞれが異なる「くに」にある人と人とが接するところに、新たなフォークロアが紡がれる。
山田章博の漫画(『夢の博物誌』所収「地下鉄で海へ」)の一節を採れば…「そんな所あるもんか」って言うたびに国はひとつずつ消えちまうんだ…ぜ。
JULGI STALTEの唄から始まるリヴォニア史は確かにある。
https://youtu.be/9KTP3285iG0