フリードリヒ・グラウザー - 狂気の王国(作品社)
血痕も飛散する荒らされた部屋を残し、行方知れずとなったラントリゲン精神病院長。
入院患者ピーターレンの、タイミング揃えたかの脱走との関連はあるのか。
対象からの直接指名で、院長代理のラードゥナー博士の警護に当たるシュトゥーダー刑事。
精神病院という閉じられた空間の中での捜査が始まる。
…と、ミステリーとしての体裁を用意したからには読者にフェアであらねばとするのか、施設の構造や状況説明、証言がつぶさに積み重ねられていく。
ところが不思議なことに情報が微に入り細を穿つほど、印象の中で舞台となる病院は表現主義映画のセットめいて捻じ曲がった書割と化していく。
それに、頁の多くを割いて語られるのは謎解きではない。
院内で人間性を慮ろうとする医者、患者の共闘する姿だ。
一向に成果の見えてこないことへの憤懣は、背景の1920年代の精神医療から溜まり続け、ついにはSPK(社会主義患者集団)のテロ行為へと至るのだろうか。
いや、そのような暴力で抜けるガスなんてない…現在も現場での苦闘は続いているはずだ。
日常生活を娑婆に置いていながら罪を犯した時のみ手を雪ぎに精神科の扉を叩く…そのような者が絶えない現在にあっては、病院の内外を引っ繰り返してしまうSPKの主張は妙なリアリティを伴って響く。
この小説の中でも謳われる病院の内外についての疑義。
狂気は伝染する…けれど本当のところ伝染ったのはどちらからどちらにだったのか?
ここで目指されている病院の姿とは、自己完結した世界のようだ。
罪も裁きも、傷も癒しも、生も死も、正も狂もすら外部に頼らず賄える世界。
それは内面に籠る患者の姿を思わせなくもない。
必要とされているのは救いではないのかもしれない…固有の世界の維持なのか。
作者は精神病院、監獄での監禁経験を基に物語を紡いでいる。
病んだ世界の内に精神病院という世界があり、病院の内で創作された世界があり、小説内の登場人物が内に抱える世界がある…入れ子状の箱が幾重にも閉じられていく。
箱が別ける内外とは、もはや正気/狂気ではあるまい。
自分自身が入っている可能性もある中身の知れぬ箱を突き付けられて、勝手に「事象」を解体し「謎」を組み立てた探偵役の二の舞を演じやしないかと、うろたえている。