触れる端から消えて行くもの 附記

linedrawing2008-10-19

伊出立前に抱えていたはずの執着が、日本に戻ってみると、憑きものが落ちたかのように抜けていることに気付く。


10月2日。
下校する学生の波を遡るようにして向かう和光大学アンデパンダン展。
これを目的と訪ねた佐藤実さんの作品は、微かな現象を切断面でもって提示する。
経過とは、実のところ点の連なりだと明かすようで。
何年も前に一度目にしている作品なのだけれど、同じ印象を得ただろうかと訝しむほど、新たな感慨を覚える。
床下に隠された小さな小さな展示室を、鏡に映して観る大村益三の作品も、ある種の断絶を指し示すかのよう。
それに比べずとも、催しのメインであるところの学生作品は予め約束されたかのように居座っていて、総じて癇にさわる。


妙な後味を切ろうと、随分と顔を出していないレコード屋まで足を延ばす。
棚を漁りながら、店に入った時から流れている唄に耳惹かれる。
訥々と…はる…だとか…はな…と女声が呟いていて。
尋ねてみれば、イタリアのユニットとの答え…えっ、日本語で唄っているよ。
PAINTING PETALS ON PLANET GHOST“Haru”(Time-Lag Records)。
これもタイミングと、少々高いアナログ盤しか残っていなかったが、手に入れて帰る。


そういえば、帰国すると知人のお華の先生から届けられていた戸村浩 展カタログにも、ブルーノ・ムナリが引き合いに出されていたっけ。
いや、強牽付会、イタリアかぶれ。


翌3日は、友人の事務所スペース借りて、映像作家とのコラボレーションのためのテスト・シューティング。
作業進めながら、3人での話は何時しか人の交わりの難しさに。
この困難さは、話ばかりでなく、眼前でも進行しているものなんだよ。


店主に薦められるがまま購入した見たことも聞いたこともないもの含め、イタリアから持ち帰ったレコードは、いずれもキラキラとした音列が反復していく。
簡素なアンサンブルがまた、水蒸気が呼吸を助けるように、ふわんと空気をふやかして…つい掛けっ放しにしてしまう。
しかしだ、言葉で表そうとも、クレジット書き写そうとも、おそらくは何の参照にもならないこれら音盤を独りで聴いているのは、贅沢なことなのか、みすぼらしいことなのか。
ちょっと戸惑う。