楽日

linedrawing2006-10-18

昨日は自らの言に従って、啓祐堂に寄るが道筋。
開催中の羽田野麻吏さんのルリユール展。
ルリユールとは、本の解体・再構築とも解したのだが、どうだろう。
切り出された鉱石であるかのように、表紙が光を帯びている。
ならば、本文もまた世界の断片か…との想いに誘われる。
羽田野さん自身の、クルクルと細部を追っていく視点も楽しい。
差し出すこちらの冊子のホチキスに眼が留まるのも、躊躇いつつの使用をすっかり読み切られたようで。


居心地の良い場所をハシゴする。
原美術館でのそれは、空間か、はたまた見知った顔のお陰か。
中庭に洩れる灯りを眺めていると、灯篭とも見えてくる建物。
ノスタルジーの断面を描くかの人から、僕と/僕が記す文章の印象が異なることを問われるが、試しにここでは‘いや別人物の手になるものです’とでも言ってみようかな。
千空間での演奏が建物自体が共鳴箱と化す巨大な音具であったとすれば、原美術館ホールの空間は音を吸って滲ませる。
旋律、演奏とも相俟って、漂泊のイメージへと繋がっていく。
小さな灯り、衰弱しながら終わらない音/声。
終わって角煮丼に舌鼓。


帰宅してお茶を啜りながら眺める深夜アニメ
酷薄な話に、血に塗れた結末。
‘人は人を殺せる’、‘行為に責任は伴う’…当たり前のことが語られているのだけれど。
就寝前の脳裏に突き刺さる。