催し案内

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ここ数年断続的に試みている、輪として完成するドローイングを敢えて分断して提示すること。
その試みを続けていると、線と連続する点とが、双方向に変容可能なかたちに思えてくる。
映画の中の時間と、フィルムの一コマ一コマとのように。
眼が恣意性を以っていずれかを見るのではないか。
ならば僕の刹那の筆ですら、ずうっと引き延ばしてきた線の一部と見えるかもしれない。
ということで遠く鳥取に点を打つべく、ドローイングに伺います。
神奈川から鳥取へと一気呵成の描線を見る者もあるのかな。
我が身を糸のように線で解体するのも、砂粒のように点で解体するのも、同じ事象の影。
ふむ、安部公房の小説『赤い繭』と『砂の女』を読み較べてみるか。

2019年6月21日(金) – 23日(日)
鳥取夏至祭2019】 at 鳥取市中心市街地ほか
鳥取のまちなかで音楽とダンスに出会う3日間。
わたしたちは踊りたいから踊り、奏でたいから奏でる。音楽もダンスも美術も。今、ここで作り出されるその瞬間を楽しむために、プロもアマチュアも垣根を越えて、ただ遊ぶところから、全ては生まれるのだと思います。劇場を抜け出して街のさまざまなところで始めてみます。もしかしたら通りがかりに出会うかも。一緒に巻き込まれてみてください。街はあそびば。
(チラシより)

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詳細:
https://tottori-geshisai.jimdo.com/

ピエール・シニアック – ウサギ料理は殺しの味(創元推理文庫)

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労働も経済も工場で賄われている街。
自己完結している土地のガス抜きとなるのは、百貨店と売春、そして場違いに内外まで味の知られたレストラン。
81年フランス産ミステリといっても、些か単語に修正を加えれば、なんとまぁそのまま日本の郊外の現在にそっくり重なるかの設定。
さてそのレストランの日替わりディナー・メニュー、木曜に「狩人風ウサギ料理」が出るとなると、決まって殺人が起きる。
背景は不毛な郊外のリアルでも、繰り広げられるのはカートゥーンの影響露わなドタバタとした謎解き。
登場するは自らの性の嗜好に率直な人物ばかり…といっても、影響元は『フリッツ・ザ・キャット』じゃないだろう。
普通に『トムとジェリー』みたいなカートゥーンを…個人的には『ドルーピー』とかのテックス・エイヴリー監督作を想起してもらいたいところ。
ネタバレに繋がるから言い難いのだけれど…そう、あの一向に懲りない延々たる反復こそがここにある。
それもドミノ倒し的に…いやピタゴラ装置的に、ルーブ・ゴールドバーグ・マシンめいて…連なる事象が反復される。
カートゥーン流の反復では、まぁ、猫と鼠の追い掛けっことか…何者かの欲求が宙吊りにされ続けるのだから、これを更に「独身者の機械」と読み換えることも可能だろう。
作中に「レーモン・ルーセル文化センター」なんて施設が現れるのだから、あながち間違った読みでもあるまい。
そしてこの機械は、猛烈な暴力をも歯車にして「日常」を駆動させるのだ。
はたと読んでいる自分の「日常」構造はと想わずにはいられない。
ほら、真っ黒なまでの笑いで以って痒くなるのは、日本の現在もやっぱり一緒だろ。

 

 

 

 

ホレーニア – 白羊宮の火星(福武文庫)

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 ヴァルモーデンは、兵役の年季を済ませてしまおうと出頭した演習から数日もしない内に、詳細明かされぬまま実戦の内にいる。
状況が戦争へと踏み込んでいく次第が、夢と現が侵犯し合う濃密なまでの予兆に満ちた世界として綴られていくのだけれど…。
このヴァルモーデンという人物、いささか劣情過多で、上官宅で出交わした謎めいた女性のストーカーと化してしまい、せっかくの徴を恋眼でしか読もうとしない。
時代設定から80年も先の未来の僕からすると、作戦がナチスによるポーランド侵攻だと察しが付いて、舞台上の喜劇役者に声掛けるように危機迫る方向/錯誤を教えたくもなる。
その上、かたちは違えど予兆得ているのはどうも主人公ばかりではないようで、読み違うところまで揃って皆。
運命の女、フィクサー、実直な職業軍人…当人ですらそう自覚しただろう、お定まりのキャラクターが通用しなくなっていく。
侵略という行為の加害者意識すら与えてもらえないのだ。
各人の慮る物語を根こそぎにするのが戦争と言えるのかもしれないが、結末近くに読みを正されるのは現在の読者であっても殆どじゃないだろうか。
僕は数々の徴が帰結するところに吃驚した…こんなの予想付くかっての。
如何様にも調べられる歴史で読者を優位だと思い込ませておいて引っくり返す…そういう意味では本格推理の手触りがなくもない。
言外にヒトラーも運命を読み切れていないと腐されている。
世界の因果を読み切れる者なんて何処にもいない。
ところが第二次世界大戦も終わっていない1940年の作家が、「現在」の読者を罠に掛けているのだ。
作者ホレーニアの視座の在処を思うと恐ろしい。
世界を読むのではなく、(架空であろうと)世界を作るという強みだろうか。

展示案内

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今更正体はバレバレだが、素顔曝しながら暗躍と嘯く怪盗やヒーローと近しい存在を狙って…’謎’の美術家トリオH!C!P!が初の展覧会を山梨で開催!

これを見逃す手はないでしょ。

2019年2月16日(土) – 3月10日(日)
【もものやま】H!C!P! 展 at 三彩洞
11:00 - 18:00(最終日17時迄) 月曜・火曜定休
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三彩洞
山梨県甲府市貢川1-1-12
tel. 090-1456-4803
https://www.facebook.com/g.sansaido/
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■もものやま
純粋芸術家による暴走奇天烈トリオ、H!C!P!。
No メッセージ, No センス、助走に全力を費やし・跡には何も残さない。
我々の疾風怒濤の進撃があなたの住む土地土地を脅かすだろう。
今回の三危人、季節外れにも桃を求めて山梨彷徨うおとぼけ。
季節問わぬ桃で迫るハニートラップの罠を掻い潜り、遂には自分たちで拵えた「もも」の正体とは?
その秘められた計画の発動を刮目して待て!
(H!C!P!)

■H!C!P!とは
各々独自の活動を見せる美術家3人が、岡山県で催された「旅するアート」に揃って参加したことを機に、2012年結成。
以来、プロダクツやステイトメントの発表のみで活動予告を重ねてきたH!C!P!。
今展「もものやま」が結成6年目にして初の展覧会となります。
遂に全貌が明らかにされるユーモアと機知に満ちた彼らの世界、ぜひにお楽しみください。

NOSEFLUTES – Several Young Men Ignite Hardboard Stump(LP Reflex Records ‘86)英

linedrawing2018-11-06

Roger Turnerが来日していたと聞いて、ドラムを得物とした即興演奏家とは承知しているけれど、さてどんな仕事をしていた人だったか…。
調べてみると、なんとNoseflutesの1stでも叩いていた。
Captain BeefheartからTalking Headsへの道を辿る内に迷子になって、用心のために棍棒やらバール手にして荒くれたがNoseflutes。
彼らも2枚の12”がある(内1枚にもRoger Turner参加)レーベルRon Johnson Records。
そこからリリースのあったバンドを中古盤屋のエサ箱に追っている内…手の込んだ組み立てながら結果トライバルな印象に刻まれるリズムや、ハードコアから捩じり取ってきたかの鳴り、小回りの利かないボーカル…とあまりの共通項の多さに見分けがつかなくなってきて、これはもう時間掛けて集めてきたけれど十把一絡げに処分をと考えていたところ。
それが改めて聴き返せば、埃まみれではあってもジャケットは着ているぜと示すこのメロディーの伊達っぷりはどうだ…場末の流儀みたいな旋律の魅力は、この機の発見だった。
肝心のRoger Turnerはというと、そうそう壊れる際のスタイルが味なんだよと、収録曲の半分近くでアタックの周辺へ砕け散っていくようなドラム、打楽器を担っている。
ライブに足運ぶこと叶わず、身動き出来ない時に於いても、充分にトリガー足り得る「興味を持つ」ということ。
藪から棒ではあるけれど、Roger Turnerには感謝しなくちゃね。
https://youtu.be/nsg2S_4C1JA

展示案内

linedrawing2018-10-19

点と線のコンビネーションで空間は拍を持つだろうか。
青山通りにある家具店内ギャラリーで、市村しげのさんとの二人展。
新作旧作揃えて控えておりますゆえ、秋空の下お誘い合わせ出掛けてもらえましたら。

2018年10月19日(金) - 11月27日(火)
【RESONANCE - 蘇生する空間】市村しげの×小川敦生
at DELL’ARTE(デラルテ)/カッシーナ・イクスシー青山本店2階
11:00 – 19:00(水曜定休)
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DELL’ARTE / Cassina ixc. Aoyama shop
東京都港区南青山2-12-14 ユニマット青山ビル
tel. 03-5474-9001(代)
http://www.cassina-ixc.jp/shop/pages/cassina_aoyama.aspx
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『over border』 小川敦生
車に乗せてもらって国道を辿っていれば標識が教えてくれたんだろうけど、こう勘を頼りにフラフラと自転車で街路を彷徨っていては、いつ県を出たのか未だ市の中にいるのかどうにも掴みづらい。
地図上ではハッキリと境界線が引かれているのにだ。内/外が判別し難いといえば、この身体にしてもそうだ。
口腔内は内なんだか外なんだか…そうそう、内科、外科の区分ってやつ。
いや、そればかりじゃないな。
昨日読み終えた本は、僕の内にあるのだろうか。
夕飯に食ったうどんはどこで僕の内へと侵入してくるのか。
細胞レベルで摂取したところで、最後まで栄養素のイメージから離れられず、自分の一部となる気がしないけど。
この島に上陸しながら、未だ日本へ入国した気がしないでいる海外から来た者があるだろう。
周囲の扱いから、人の中にありながら自らがその一員であるとは信じることが出来ない者もあるだろう。
境界は確かに明示されているが、現場に居る者が内/外の確証を持てることなんてない。
だから現在どこに居るかとは聞いてくれるな。
もう携帯の充電も危ういし、尋ねるなら目的地にしてくれ。
きっと着くから、明日そこで会おう。

ミュノーナ - スフィンクス・ステーキ(未知谷)

linedrawing2018-07-08

同著者の邦訳を新たに2冊手に入れたので、頁切る前にこちらを再読。
ミュノーナは、哲学者ザロモ・フリートレンダーが創作物す時の筆名。
パウル・シェーアバルトと親交結び、タダイスト達の活動の傍にあったので、前触れめくイマジネーションとダダを繋ぐ存在だろうか。
エネルギー保存の法則を発見したローベルト・マイヤーの評伝執筆していることも忘れないでおきたい。
シニカルな掌編集ぐらいの印象でサクサク進めた初読の憶えはどこへやら、これがどうして、注意喚起されるところ多く躓いてばかり。
こちらの読解力に僅かばかり成長したところがあるのか、単なる読み零しを拾い直しているのやら。
収録作のほとんどに、究極への志向から極端な選択をした人物が登場する。
その選択が技術・思想で成立するため、寓話めかしてはいても味わいはSFに近い。
究極なところでの判断とは叶うか/叶わぬかしかないから、もはや白黒二元論の世界、たとえ「愛」を俎上に載せたところで情緒的な部分は排除されてしまう。
ここでの愛の成就は、パートナーの意向や生死に拘らず、永遠に施行されるものなのだ。
悲喜劇と他人目に映ったところで、当人は理想の内、「悲」があるはずもない。
周囲をバリバリと粉砕しながら進む理想の実現には、もう笑うしかない。
一方で「ゲーテ蓄音機 - ある愛の物語」の一篇は様子が違う。
どれほど過去の発声であっても微細ながら振動は空間に残るはずとの理論からゲーテの声を再生する発明は、肉声から故人の思惟を量れるものでもあろうに、ただ発明家の想い人の気を惹く道具に。
手にした究極的能力で見得を切るのみというのもまた極端な話ではあるけれど、どうしてか、こちらの方がチャーミングだ。
可否ではなくて、距離手繰る恋愛だしね。
愛嬌とは白黒ではなく淡いにあると。


註. ローベルト・マイヤーは永久機関の発明に明け暮れた後、不可能と断じて「エネルギー保存の法則」の発見に至る。これもまた極端な話。